エッシャーの階段











ほたる、と名前を呼ぶと彼はゆっくりとこちらを振り向いた。呼ばれた本人はあ、えーた!と幼稚な、下っ足らずの口で俺の名前を呼び、にこ、と笑って立ち上がって汚れてもいない臀部を払ってからとてとてと歩いてくる。


「おはよー」
「おはよう」
「えーた、今日もかっこいーねー」


俺のコートのボタンを人差し指で、意味も無く押しながらそう言う。相変わらず行動が一々幼稚だ。これが小学生なら話もわかるが、彼はもう酒もタバコも許された20歳なのだから頭が痛い。天然というか、なんというか、つまるところあほなのだろうというところで俺は納得している。


「まだ前の撮影終わってないのか?」
「うん。なんかねー今やってるモデルさんがチョーわがままなの」
「へえ」


カメラのレンズの先を見れば、胸を強調したドレスを着た女がセットのソファーにやる気なさげに横たわっていた。色が白く、胸が異様にでかく、睫毛がばさばさでまるでお化けのような目をしている。あぁそういえば最近よくテレビで見かける顔だ。バラエティ番組できゃあきゃあ良いながらカメラ目線を気にし、立ち居振る舞いの細部までを演技する女。つまるところ、グラビアモデルだ。


「ね、えーた、あの子かわいーと思う?」
「いや、大した魅力は感じないな」
「だよねー」


僕もそう思う!なのにさ、すごいわがままなの!空調が弱いとかのどが渇いたとか言って時間押すんだよー。そう言ったところでそのわがままなモデルがこちらをちらりと、そのお化けのような目で見てきたので横でわーわー言うほたるの口を反射的にふさぐ。今のほたるの話が聞こえていたとしたら彼女はかなりの地獄耳だろうが、地獄耳でもそうでなくても出来るだけ異性関係での揉め事は避けたかった。反感を買ってもろくなことにならないことは知っている。しかもグラビアモデルが相手ならなおさらだ。

彼女の視線は相変わらずこちらに向けられていた。ほたるの悪口が彼女に聞こえたのかどうなのか、良くわからないが彼女は視線をはずそうとしなかった。かしゃ、かしゃ、というシャッターを切る音とカメラマンのモデルを褒める声は絶えず聞こえていたが、不意にモデルが、ソファーの上に乗せていた足を、の背もたれに引っ掛けた。スカートがめくれ、白い足が露出する。長くて、白い足。スパンコールが散りばめられた深い緑色のヒールが脱げてソファの前に音を立てて転がり、セットの、ワインレッドのソファーと秋色にコーディネートされた衣装にそのヒールと白い足が厭味なほどに映えた。スタジオ内の男が息を呑むのがわかる。それから彼女は視線をカメラに戻し、刺すような鋭い線でレンズの向こうの、雑誌をめくる読者を挑発にかかる。シャッターの音が速度を増し、モデルを褒める声は幾分かの興奮を含んだ。

しかし俺は興奮なんか露ほども感じず、なんだあれ。出来るんならさっさときめろよ、と思いながらむーむーと手のひらの下で呻るほたるの襟首をつかんで近くにいた担当のアシスタントに声をかけた。


「あと何分くらいかかりそうですか?」
「ンー、たぶん、40分くらいかしら。ごめんなさいね、待たせてしまって」
「いえ、かまいません。こいつと一緒に少し外に居ます。また戻ってきますんで。衣装、このままでもいいですか?」
「えぇどうぞ。戻ってきたときにまた少しいじらせてね」


そう言ってから、アシスタントはほたるに、まるで息子を見るかのような笑顔を向けて手を振った。



自販機のある所まで来ると、ほたるは百円貸して、と右手を突き出してきた。財布をスタジオに置いてきたらしい。ポケットから小銭入れを取り出して、そのまま渡すと嬉々とした表情で自販機の前をうろうろする。それを、タバコに火をつけながら眺めた。
アッシュブラウンのメッシュを入れた髪はワックスでボリュームを上げ、元々の癖毛を武器にして頭にかぶったベレー帽の下からぴょこぴょことはみ出させている。大きな瞳には緑のカラーコンタクトを入れ、彼が羽織ったコートはそのブランドがこの秋はこれで勝負するという力作中の新作。中に着たセーターは淡いクリーム色に青いメーカーのロゴがちらりとコートの隙間から見え、パンツは色の抜けていないジーパン、靴はブラウン、パイソンのウエスタンブーツ。全体的に秋色の配色は全て雑誌のためだった。


雑誌。

ファッション雑誌、「DE映TH」。
ファッションというか、もう芸術誌に近いそれはファッション業界の中じゃ有名な雑誌で、ブランドメーカーなら我先にと名前を載せたがる一冊。



ほたるも俺も、その雑誌のトップを飾るファッションモデルだ。




「150円だった」


ずい、とコインケースを目の前に突き出されて顔を上げた。そしてほたるの手の中のものを見つめる。それは缶でも、ペットボトルでもなかった。


「…何でお前アイスなんか買ってんの」
「だって食べたかったんだもん!」


もん、て言うな成人男性が!てゆか成人男性の癖に何で似合うんだ、その語尾。思いながらタバコをもみ消し、隣に座ったほたると入れ替わりでコーヒーを買うために立つ。ジョージアの缶コーヒーを買って戻るとほたるは眉を寄せてぼそりと、カフェイン中毒、とつぶやいた。


「お前は糖分中毒だろ」
「ちがうよ、甘いものは体に必要なの」
「カフェインも必要だよ」
「コーヒー飲まなくても死にません」
「甘いもん食わなくても死にません」
「僕は死にませえーん!」
「……………」
「似てた?」
「まったく」


そしてけたけたと笑うほたるを横目に、俺はため息を吐いてコーヒーを口にした。







つづきます
47 お題(題名)お借りしました。