学校からの帰り道。

あちらこちらにカラフルな看板がたくさんある商店街はぼくの通学路で、同じ方向に家がある友達が居ないのでぼくはいつも一人で帰っていた。そこは人通りがとても多いから、1人でも寂しくない。


今日も、明るい午後3時の道で、いつもと同じような帰り道になる筈だった。


けど、












 フルーツ空のワルツ











「きいちゃん!」


名前を呼ばれて足を止める。ざわざわとしている商店街の中で、なんだか急に聞きなれた声で名前を呼ばれた気がした。てゆか呼ばれた。きょろきょろと辺りを見渡すともう一度声がする。今度はちゃんと場所がわかった。


「こっちこっち」


右側にあるくだもの屋さん…のカウンターの中にタチバナが居た。あ、と思ってお店の中に入るとタチバナはカウンターの上から身を乗り出して、ぼくの頭をぐりぐりと撫でた。ここは良く知っているくだもの屋さんだった。店内には色鮮やかなくだものがたくさん並んでいて、カウンターにはお店のおじちゃんが毎朝作るお手製のジュースが入ったミキサーが3台並んでいる。そのジュースは学校の友達の間でもとても人気のジュースで、だからこのくだもの屋さんは僕たちの中でもとても有名なのだ。


「おかえり、今学校終わったんだね」
「うん。なんで、タチバナお店の中にいるの?おじちゃんとおばちゃんは…」


見上げると、タチバナはにっこりと笑ってカウンターの中の椅子に座りなおして手招きする。こっちに入っておいで、と言われて、なんだかちょっとドキドキした。お店の人しか入れない場所に、入ってもいいのかな?そう思いながら足を踏み入れる。


「たまたまお店に来たら、ちょっとだけ店番しててって言われたんだー」
「おじちゃんたち、用事?」
「うん、みたいだね」


カウンターのうらっかわには小さなメモや数字がいっぱい並んだ紙とかがいっぱい置いてあった。お店の中はいつもと違うように見えて、レジは思ったより小さい。 普通なら入れないようなところに入れて、わくわくした気持ちになって、きょろきょろと周りを見ているとタチバナが鞄ごとぼくを後ろから抱っこした。そのまま、ひざに乗せられて、ぎゅーっとされてちょっとびっくりする。


「……?」
「きいちゃん、今日誰かと遊ぶ約束してる?」


首を横に振る。


「じゃあ一緒にお店番しよっか」
「うん」


そしてしばらく、タチバナは何もしゃべらなかった。ぼくはもともとしゃべるのが苦手だから、普段からあんまりもしゃべらない。二人とも無言で、ぼくはぼんやりと目を瞑った。背中にはタチバナの心臓があって、おなかがあって、タチバナが息をすると、それが背中でわかる。まるで寝ているときみたいだなあ、ってちょっと思って、タチバナに体重を預けて大きく息を吐いた。
タチバナは良くぼくをだっこしてくれる。ぼくはそれが凄く好きで、タチバナにぎゅーっとだっこされてるとなんだか凄く、安心する。だっこされてるときのぼくは、おばけも宇宙人もテストも怖い夢もぜんぜん怖くなくて、たぶん世界で一番のこわいもの無しになれる。今もそんな勇者みたいな気分になって、ちょっとゆっくり、深呼吸をした。

目を瞑っているとお店の中のいろんなくだものの、いろんなにおいがわかる気がする。お店の外はあいかわらずたくさんの人が歩いていてざわざわしてたけど、お店の中はなんだかとても静かだった。

なんか、全然違う世界みたい。



「あのー、すみません」
「あ、はいはい」


ぱっと目を開けると、知らないおばさんがりんごを持って立っていた。お客さんだ。ぼくは邪魔かな?と思ってタチバナのひざからぴょんと降りると、そのおばさんはにっこりしながらごめんねえ起こしちゃったね、と謝ってきた。慌てて首をふると、おばさんはまたにっこりしながら可愛いねえと褒めてくれる。その横で、タチバナはそうでしょうと言いながら慣れた手つきでレジを打っていた。


「りんご3つで280円になりますー」
「はいはい280円…。形山さんは?」
「あぁ、何だかすぐ戻ってくるそうなんですけど」
「あらそう…大丈夫かしら。息子さんのお嫁さん、大事無いと良いんだけどねえ」
「そうですね、それが一番なんですけど」
「あなたも大変ね、がんばって頂戴ね」
「はい。ありがとうございましたー」


おばさんはにこりと笑って帰っていった。タチバナはレジにお金を入れて、横にある小さなメモに 、りんご/3つ/280円 と細い字で書く。


「あれ、そーいえば雑貨屋さんは?」
「あぁ、サカノに店番してもらってる」


サカノというのは、青い目と青い髪の毛をしたお兄ちゃんだ。ぼくよりも大きくて、タチバナよりも小さい。いつも大きな声できらきら笑っていて、音楽室の楽器をいっぺんに鳴らしたような人だった。けど、ぼくは、サカノがちょっと苦手だ。たぶん、サカノもぼくのこと苦手なんだと思う。

で、タチバナはお店をやっている。雑貨屋さんというお店らしくって、何だか小さくてきらきらした物ばかり売っているお店だ。でも、お客さんはあんまり来ない。あと、お店には「何でもします」という張り紙が張ってある。だから、サカノがお店に居るときに「何でもします」のお願いが来てしまったら一体どうするんだろう。サカノはお店番をしているだけだから、きっと困ってしまう。心配してタチバナを見上げると、大丈夫だよーと軽い返事が返ってきた。


「あ、そうだ。ジュース飲んでもいいって言われたんだけど、きいちゃん飲む?」


のど渇いたでしょ、って言ってタチバナがミキサーを指差した。タチバナは、ぼくがここのジュースが大好きだということをよく知っている。ぼくはうれしくて大きくうなづいて、みっつならんだ真ん中の、ミックスジュースを指差した。

そのときだった。

お店の中の空気が、なんだか急にぶわっと変わった。ぼくはさいしょその原因がわからなくて、何だろう、と顔を上げた。タチバナがお店の入り口をじっと見ていたから、僕もつられてカウンターの中から背伸びをして入り口のところを見ると、そこには男の人が一人、立っていた。大きな肩、ちょっとはげた頭、全体的に丸いからだ。よく知っている人だった。このお店でいつもくだものを売っている、おじちゃんが帰ってきたのだ。

あ、とぼくはうれしくなって声をかけようと思ったけど、だけどおじちゃんは何だかぼんやりした顔をしていて僕は口を閉じる。

……、…なんだろう。


カウンターの中に居るタチバナを見つけて、おじさんは小さく笑った。


「おお橘。悪かったな、助かったよ」
「いえいえ。ところで今ジュース貰おうと思って」
「あぁ、良いぞ良いぞ。好きなだけ飲んでくれ」


おじさんはカウンターに身を乗り出して何かを置いて、それからタチバナの横に居るぼくを見つけて目を丸くしてから「お、ちびすけ、」と言った。ぼくは友達の中でも一番小さくて、いつもおじちゃんにそう呼ばれていた。


「こん、にちわ」
「偉いなちゃんと挨拶ができて。うちにこんな小さなお店番が居たとは」
「ふふ。甘く見てもらったら困るよ、この子程店番のうまい子はこの町には居ないからね」
「だろうなあ。おいちびすけ、これ持って帰れ」


そういっておじさんはカウンターの上にさくらんぼ、みかん、小さいメロンとかりんご、あと、夏においてかれたおっきなスイカをいっぱい並べた。ぼくがびっくりしているとタチバナはあんまり驚いた感じも無く、いいの?こんなに貰っても、と言う。おじさんはちょっとだけ笑って、おう、と一言だけ言ってお店の奥の方に入っていった。

そのおじさんの、背中がなんだか寒そうだった。タチバナの服のすそをつかんで、ちょっとだけ引っ張る。


「うん?」
「おじさん、何か、ふわふわしてる」
「ふわふわ?」
「なんか……」


タチバナを見上げると、タチバナもぼくを見下ろしていた。緑色の目が、ちょっと薄暗いお店の中で夜の猫の目のようにはっきり見えた。それから、ぼくが口を開こうとしたしゅんかんに何だかシャボン玉の色みたいな顔をしてへらっと笑った。


「そうだね」
「…え?」
「あっ!きいちゃん大変!おじさん忘れ物!これ渡してきて」


ぼくの言葉をさえぎって、さっきカウンターの裏側におじさんが置いたものをタチバナはそっとぼくに渡した。なんだろうと手のひらを見ると、それはくしゃくしゃになった柔らかい紙だった。タチバナを見上げると、和紙だよ、とぼくの質問に先回りして答えて、そうしてぼくの肩を掴んでぐるりと向きを変えさせた。それから背中をぽん、と押す。

紙をゆっくりと広げてみると、くしゃくしゃになった紙には漢字が四つ並んでいた。でも、ぼくには読めない漢字。これをおじさんに渡さないといけない、と思って、いつもおじさんがいる、お店とつながっている畳の部屋をのぞくとおじさんはこっちに背中を向けて座っていた。
やっぱり、なんだか背中が寒そうな気がする。


「…おじちゃん、」
「…ん?どうした?」
「これ、」


紙を見せると、おじさんは目を細めて紙を見た。
まるでこの紙がまぶしい物みたいに。


「あー…それなぁ、もういらなくなっちゃったんだよ」
「名前じゃ、ないの?」
「………」


おじさんは、ゆっくりと手を伸ばした。ぼくは、その手にくしゃくしゃになった紙をできるだけ広げてから渡した。

紙に、真っ黒な太い字で大きく書かれていたのは和博、と光貴という四文字。なんて読むのかは分からなかったけど、それは確かに名前だと思った。おじさんはその紙のしわを、いつもくだものを持っている指でゆっくり伸ばして、それから


「かわいそうになあ、本当に、…名前になればよかったんだがなあ、」


ぼくは息が止まりそうになる。
おとなの人が、僕よりも、タチバナよりも大きなおじちゃんが


泣いた、のだ。


びっくりして、ぼくは入っていいかも聞かないまま靴を脱いで勝手に部屋にあがって、でもどうしていいのか分からなくて、おじちゃんの横に座り込んでしまった。なんだかこわくて、顔を覗き込むことができない。


「ど、どこか痛いの?お、おいしゃさん、に…」
「いいんだ、医者が必要なのはおれじゃないんだ、」
「でも泣いてるよ…」


おじさんはあぁ、と呟いてから目からまた大きな涙がこぼれて、その涙は持っていた紙にぽろぽろと落ちた。やわらかい紙に書かれた文字はその涙でじわり、とにじんでいく。それが、何だかとてもいやだった。ぽとぽとと落ちるおじさんの涙で、文字はどんどん文字じゃなくなっていく。

これは人の名前のはずなのに。なのに何だかにじんで、名前じゃ、漢字じゃなくなっていく。

この漢字が読めなくなるのが何だかとても、すごく、こわかった。


「おじちゃん」
「いいんだ、おじちゃんは大丈夫だよ」
「泣いてるときは大丈夫な時じゃないんだよって、タチバナいつも言ってるよ」
「……君は、いくつだ?」
「え?えっと、10歳…」
「そうか、10歳か、大きいなあ、」
「…大きくないよ、ぼくずっと一番前だもん」
「はは、大きいよ。…大きいさ。」


いつもはぼくのことちびすけ、って呼ぶのにおじちゃんはそう言って、ぼく頭をぐりぐりと撫でた。それはタチバナがぼくにするのとは全然違うくて、とっても力強い撫で方で。


(手がおっきい)


「さ、帰りな。橘にありがとうって、おじちゃんの代わりに言っといてくれ」
「え、あ、でもおじちゃん、まだ…」
「もう大丈夫だよ。これから色んなことをやらなきゃいけねえんだ」
「……」
「ほら、家に帰ってくだものでも食べな。すきなの、何でも持って帰っていいぞ。おじちゃんの店のくだものはみんな特別にうまいからな、」
「ん。知ってるよ。みんなそうゆってるもん」
「はは」


ぼくはゆっくり、畳の部屋から降りて靴をはく。おじちゃんはそんなぼくの動きをじっと見ていた。大人の人が泣くところを、ぼくは初めて見て、なんだかとても怖かった。なんだかとても、どうしようもないことが起こったような気がした。おじちゃんに、なにがあったんだろ。わかんないけど、こわかったけど、でも、ぼくにはどうしようもなかった。


「お、じちゃん」
「ん?なんだ?」
「…お店、やめないよね?」
「やめないさ」
「ぼく、おじちゃんの作るジュース好きだよ」


おじさんは涙を拭き、そしてにっこりと笑って、ありがとう、と言った。それからさっきタチバナがそうしたようにぼくのせなかをぽん、と押す。ぼくが靴のかかとを踏んだままタチバナのところに戻ると、タチバナはさっき貰ったくだものをそっくりそのままお店の紙袋に詰め終わっていた。おまけに、ミキサーの中のジュースもすっかり無くなっている。


「ジュースも貰って帰るの?」
「うん、今日のはどうせ捨てられちゃうから」
「え?」
「帰ろう、きいちゃん。サカノが待ってる」
「うん」
「じゃあ形山さん。僕帰りますね」
「おう」


わるかったな、と遠くからおじさんの声が聞こえた。それはやっぱり、元気の無い声だった。 ぼくはぎゅっと胸が小さくなった気がしてタチバナの服を握った。さっきまで明るかったお店の中がなんだかいっそう薄暗く感じて、くだものたちが寂しそうだった。なんだか、こわい。タチバナはそんなぼくに気づいたのか、ぼくの頭を手のひらでよしよしとなでる。いつもとおんなじ手のひらになんだかとても安心して、ほ、と息をつくとタチバナがお店の奥に向かって一言言った。けど、ぼくはなんだかくだものに向かっていっているように感じた。


「またのご利用を」


タチバナが言ったその言葉の意味は、ぼくにはわからなかった。





外はもう夕焼けで赤くなっていた。商店街には買い物帰りの人がたくさんいて、ぼくらは家に帰るために途中の細いうらろじに入る。けどきっと、先にお店に行くだろう。サカノはきっとまだ、お店番をしているはずだから。遠くのほうでやわらかいリコーダーの音がしていて、夕方だなあ、とぼくは思った。


「ね、タチバナ」
「うん?」
「おじさん、泣いてた…」
「うん、そうだね」
「大人の人も泣いちゃうの?」
「大人の人も、泣きたいときがあるんだよ」
「タチバナも?」


まっすぐ前を見ていたタチバナは、ふとぼくの顔を見て、それから、やさしくにっこりと笑う


「僕はきいちゃんが居てくれたら、泣くことなんてひとつもないよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんと」


タチバナはおかしそうに笑って、それからぼくの左手を右手でぎゅっと握った。大きくてあったかい手。こころの中にあったもやもやがまた、さっきみたいにちょっとだけどこかに行って、ぼくはなんだかほっとする。だっこしてほしいなあって思ったけど、くだものがたくさんあるし、ぼくはかばんも持ってるからだめだな、とあきらめる。

なんだかすごく、だっこしてほしいきもちだった。ぎゅうーって。してもらったら、この怖い気持ちもいっぺんに吹き飛んじゃうと思う。タチバナの手をぎゅっと握り返すと、タチバナはぼそっと、


「きいちゃんこそ泣き虫だからなあー」


ぼくをからかうようにそう言った。


「…ぼく泣き虫じゃないもん」
「えーほんと?」
「ほんと!」
「ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとっ」


顔を見上げるとタチバナもぼくを見下ろしていた。それから、タチバナはちょっと立ち止まって、つないでいた手を離して、くだものとジュースがたくさん入った紙袋を右手に持ち替えた。どうしたんだろう、と思っているとタチバナはちょっとしゃがんでから、ぼくの太ももあたりを左手で抱えて、そのまま持ち上げた。だっこだ。いっきにぼくの世界が高くなって、びっくりする。


「わ、わあっ」
「首につかまっててー落ちるよ」
「お、重いでしょ、ぼく降りるよ」
「大丈夫。まだ全然軽いから」
「え、えー」
「ほら、ぎゅーってして」


どうしようかと思ったけど、タチバナは気にせずに歩き始めたので言われたとおりに首にぎゅーっと抱きついた。今まで歩いていた道が見える。後ろ向き。タチバナはなんだかとても楽しそうな声で、あ、いいこと思いついたーと言った。


「帰ったらフルーツポンチ作ろうか。スイカのうつわにサイダー入れて、ちっちゃく切ったくだものたくさん浮かべちゃおう。アイスも入れてさ」
「くだもの、何もらったのー?」
「スイカとねえ、メロンとさくらんぼと、みかんといちじく。あと、りんごとぶどうとモモとマンゴーをいーっぱい」
「そ、そんなにもらっちゃって良かったの?おじちゃん明日からお店できないよ」
「んー。なんかね、多分しばらくお休みするから大丈夫だよ」
「おやすみ?」
「そう。お店、きっとお休みなんだ」


それは、おじちゃんが泣いていたことに関係するのかもしれなかったけど、なんだかぼくはきけなかった。その代わりにタチバナの右手に持たれた紙袋をちらりと見る。なんだか袋はいっぱいいっぱい、て感じで、凄く重そうだった。


「お、重くないの?」
「重くないよー」
「えー」


それから、しばらく会話は途切れた。
ぼくはぼんやりと、ゆっくり進んでいく町の景色を眺める。向こうの方の空が上から少しずつ、濃い青色になっていく。町もだんだん暗くなってきて、リコーダーの音も聞こえなくなった。ぼくはタチバナにだっこされてゆらゆらしていたら、なんだかだんだん眠くなってきてしまった。別の世界みたいなお店の中も、泣いてたおじちゃんも、ぼやけていった名前も、みんなみんな向こうの空の青色にじわじわとけていって、タチバナのあたたかさだけが世のすべてになる。今のぼくに怖いものなんて何も無くて、きっと、世界一安全な場所にいるんだと思った。


「今日の晩ごはん、何にしようかなあ」
「あ、タチバナ…」
「んー?」
「おじちゃんが、タチバナにありがとうって言って、ってゆってた」
「そう。…きっと、きいちゃんのおかげだよ」


タチバナの声を聞きながら、ぼくはゆっくり目を瞑る。


(…あったかい、)





そして世界は、きれいな星空に姿をかえてゆくのだ。